📘 この記事は連載シリーズ
「介護者のための明日が少し楽になるヒント」の一部です。
- ▶ 第1話:すべては突然の電話から始まった ― 介護生活の入口(この記事)
- ▶ 第2話:知っているだけで救われる―介護生活が楽になる制度の話
- ▶ 第3話:介護生活に変化をもたらした介護支援専門員との出会い
- ▶ 第4話:見えない負担と向き合って ― 家族の変化が教えてくれたこと
- ▶ 第5話以降:近日公開
「まさか、うちが…」
それは、本当に突然の出来事でした。平成14年3月15日、午前9時半ごろ。いつものように会社で仕事をしていた私のもとに、一本の電話がかかってきました。その電話が、私の、そして私たち家族の日常を根底から覆すことになるなんて、その時は思いもしませんでした。
1. 予期せぬ電話
その日は、所得税の確定申告最終日。週末のゴルフのことも考えながら、いつも通り仕事に集中しようとしていた矢先でした。ポケットの携帯が鳴り、画面には子どもたちが通う幼稚園の番号が表示されていました。なぜか、少し胸騒ぎがしたのを覚えています。
電話に出ると、聞こえてきたのは園長先生の緊迫した声。「奥様が、お子さんを幼稚園に送る途中、道端の建物に接触事故を起こして救急車で運ばれました」。
予想もしない言葉に頭が真っ白になりながらも、詳しく状況を聞くと、妻は意識がないまま搬送されたとのこと。ただ、幸い子どもたちは無事で、幼稚園で預かってくれていると聞き、「きっと、それほど大事ではないだろう」と、どこかで自分に言い聞かせようとしていました。
会社には「ちょっと事故の状況を確認して、午後には戻ります」と、努めて軽い口調で伝え、私は急いで会社を後にしました。
2. 幼稚園で見た光景
幼稚園に駆けつけると、園庭には見慣れた我が家の車が停められていました。フロント部分には、痛々しい傷跡が。ちょうど最近車検を受けたばかりだったので、「もしかして、ブレーキの調整が悪かったのかな…」なんて、自分を安心させるための理由を探していたように思います。
その日は、卒園式と終業式の日でした。事故の第一発見者は、偶然にも非番の警察官である保護者の方だったそうで、救急車の対応や事故処理はスムーズに進んだと聞きました。上の娘は卒園式には出られず、4月から入園する下の娘と一緒に、控え室で遊んでいました。突然現れた私を見て驚いた様子でしたが、すぐに駆け寄ってきてくれた笑顔に、少しだけホッとしたのを覚えています。
控え室で先生や他の保護者の方と事故について話しましたが、この時点でも、私はまだ事態の深刻さを本当の意味で理解していませんでした。車の状態を確認し、保険会社と警察に連絡を入れた後、子どもたちを連れて病院へと向かいました。
3. 病院への不安な道のり
向かったのは、義父母がお世話になったことのある国立病院でした。車を運転しながら、事故の状況を何度も考えました。でも、なぜ救急搬送されるほどの事故だったのか、腑に落ちない部分がありました。「きっと、念のためだろう」と自分に言い聞かせようとしても、胸のざわめきは消えませんでした。
病院に到着し、救急外来の受付で妻の名前を告げると、「4階の救命救急センターへ行ってください」と言われました。「救命救急センター…?ただの接触事故なのに、なぜ?」その言葉を聞いた瞬間、初めて具体的な、そして重い不安が胸に広がりました。
4. 医師からの衝撃的な宣告
救命救急センターの入口は、想像以上に厳重な雰囲気でした。待合室で落ち着かない時間を過ごしていると、やがて担当医に呼ばれました。子どもたちは中には入れず、看護師さんに預かってもらうことに。
案内された小部屋で、医師は私の目をまっすぐ見て、静かに、しかしはっきりと告げました。
「奥様は、くも膜下出血を起こしています」
その瞬間、全身から血の気が引いていくのを感じました。…ただの交通事故ではなかった。脳の出血が、事故を引き起こした可能性があること、そして、非常に危険な状態で、すぐに緊急手術が必要であることを、医師は冷静に説明しました。
信じられない…、信じたくない…。打ちのめされている私のもとに、連絡を受けて同居の義母や近くに住む義姉が駆けつけてくれたことは、本当にありがたかったです。手術は深夜までかかりました。一命は取り留めたものの、「5段階のうち3番目に重い状態」と告げられ、これから先にどんな後遺障害が待っているのか、想像もつきませんでした。
5. 「介護」という未知の世界へ
混乱した頭のまま、子どもたちが待つ場所へ戻ると、二人は何も知らずに無邪気に遊んでいました。その姿を見て、私は痛感しました。これまで妻が当たり前のように担ってくれていた家事や育児、そしてこれから始まるであろう妻の「介護」。そのすべてが、これからは自分の肩に重くのしかかってくるのだと。
医師の言葉が頭の中でぐるぐると回り続ける中、「自分が強くならなければ」と、必死で自分を奮い立たせました。妻の回復を心から祈りながら、仕事、育児、そして介護をどうにか両立させなければならない日々が、こうして始まったのです。
6. 苦難の日々と、そこから得た学び
あの日を境に、私の日常は文字通り一変しました。妻の看病、娘たちの世話、慣れない家事、そして仕事…。時間に追われ、心身ともにすり減っていく日々は、想像をはるかに超えて過酷なものでした。
でも、その苦しみの中で、私は多くのことを学びました。どうすれば介護のストレスを少しでも減らせるか、どんな便利グッズや公的な支援制度があるのか、そして何よりも、介護する人自身の心を守ることの大切さに気づかされたのです。
このブログを立ち上げたのは、この経験を通して得た知識や工夫を、今まさに同じような困難に直面している方々に伝えたい、少しでもお役に立ちたい、という強い想いからです。
エピローグ:ブログという希望の種
あの衝撃的な電話から、もうずいぶんと年月が経ちました。それでも、あの日の出来事、あの時の感情は、決して忘れることはありません。介護という経験は、確かに私の人生を大きく変えましたが、同時に、そこで得た知識や気づきを発信することで、誰かの助けになれるかもしれない、という新たな希望を与えてくれました。
「介護」という、時に孤独で、先が見えないトンネルのように感じられる状況にいらっしゃる方々へ。このブログが、あなたの心にそっと寄り添い、明日を少しでも楽にするためのヒントとなり、小さな希望の光を灯すきっかけになれたら、これ以上の喜びはありません。
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次回は、私が「知らなかった」ことで大きな負担を強いられた、介護とお金にまつわる制度についてお話しします。
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