📘 この記事は連載シリーズ
「介護者のための明日が少し楽になるヒント」の一部です。
- ▶ 第1話:すべては突然の電話から始まった ― 介護生活の入口
- ▶ 第2話:知っているだけで救われる―介護生活が楽になる制度の話
- ▶ 第3話:介護生活に変化をもたらした介護支援専門員との出会い
- ▶ 第4話:見えない負担と向き合って ― 家族の変化が教えてくれたこと(この記事)
- ▶ 第5話:沈黙の20年を振り返って(執筆予定)
1. 最初の10年、なぜ支援に辿りつけなかったのか ― 見えていなかった「当たり前」の負担
2002年に妻が倒れてからの数年間、今振り返ると、私たちはどこか“普通の家族”のように見えていた時期があったのかもしれません。
妻自身のケアはもちろん、子どもたちの送り迎え、日々の家事──その多くを、同居していた義母が本当に自然に、そして献身的に担ってくれていたからです。当時の私にとって、それはあまりにも「当たり前」の光景になっていました。
実際には、前回お話ししたように、妻はその10年間で19回もの入退院を繰り返していました。でも、日常生活の中では、その大変さが表立って見えることは少なかったように思います。
近所を散歩したり、買い物に出かけたり、時には夜中に思い立ったように料理を始めたり… そんなこともありました。
もちろん、高次脳機能障害による記憶の問題は抱えていましたが、それでも「なんとか、やれているじゃないか」という姿を目の当たりにすると、どうしても「助けを求めよう」「支援を受けよう」という発想には至らなかったのです。
今になって痛切に感じるのは、“支援が必要だ”と気づくべきサインはたくさんあったのに、それを見て見ぬふりをしていたのは、他ならぬ私自身だったのかもしれない、ということです。義母の負担に、本当の意味で気づけていなかったのです。
2. 家族の危機 ― 長女の家出と、義母の認知症という現実
そんな、どこか危ういバランスの上で成り立っていた「日常」が、はっきりと崩れ始めたのは、2011年のことでした。
その年、我が家には、立て続けに二つの大きな出来事が起こりました。一つは、当時高校進学を控えていた長女の家出。そしてもう一つは、それまで家を支えてくれていた義母が倒れ、認知症と診断されたことです。
長女は、小学校に入学した頃から、いじめや学級崩壊といった、子どもにはあまりにも厳しい環境の中で心を痛めてきました。
親として、できる限りのサポートをしているつもりでした。でも、本当に彼女の心の叫びに耳を傾け、寄り添うことができていたのか… 今、問われれば、正直、自信を持って「はい」とは言えません。
彼女が家を出る時に残していったメモには、こんな言葉がありました。
「大切にされているのはわかる。でも、それが重すぎる」
その言葉の本当の意味を、私は今も考え続けています。
一方で、義母の認知症は、驚くほど急速に進行していきました。
急に怒りっぽくなったり、時には暴言を吐いたり… それまで穏やかで、いつも私たちを支えてくれていた人が、まるで別人のように変わっていく姿を目の当たりにするのは、本当に辛い経験でした。
最終的に、義母はアルツハイマー型認知症と診断され、特別養護老人ホームへ入所することになりました。
そして、頼るべき人をすべて失った私は、前回お話ししたように、初めて「福祉課」の窓口を訪れることになったのです。
それは、「よし、支援を受けよう!」という前向きな決断というよりは、むしろ「もう、誰にも頼れない…」という、どうしようもない現実を受け入れるための、ギリギリの選択だったように、今は思います。
3. 次の10年、私の心に起きた変化 ― ケア体制は整った、でも家庭との距離は…
その後、第3話でご紹介した経験豊かなケアマネジャーのWさんとの出会いがあり、様々な支援が導入され、妻の生活は驚くほど安定していきました。
デイサービスへの通所、ヘルパーさんの手配、関係者との定期的な情報共有(ケアプラン会議など)──介護を取り巻く環境は、着実に整っていったのです。
そのことに安堵すると同時に、私自身の心の中に、ある変化が生まれていることに気づき始めていました。
それは、「私が、家にいない時間が増えていく」という変化でした。
ちょうどその頃、職場で昇進し、海外営業の責任者としての役割も増え、私の生活はますます会社中心に回るようになっていました。出張も多く、物理的に家を空ける時間が増えたことも事実です。
でも、それだけではなかった。心のどこかで、介護という現実に向き合うことから、仕事を言い訳にして、少しずつ距離を置こうとしていた自分がいたのではないか、と今は感じています。
そして、私が家庭から離れれば離れるほど、そのしわ寄せは、家に残った次女(家出した長女の妹)へと向かっていきました。彼女が、若くして母親のケアを担う、いわゆる「ヤングケアラー」のような状況になってしまっていたのです。
頼りにしていたケアマネジャーのWさんが現場を離れ、後任の方との連携が思うようにいかなくなった時期もありました。そんな中で、娘がケアの最前線に立たざるを得なくなっていた…。その頃の私は、「介護者としての自分」が、本来いるべき場所に、いなかった。その事実に、今、深く向き合わざるを得ないと感じています。
4. エピローグ:崩れたのは支え? それとも私自身? ― 今、思うこと
あの頃、私は「家族の支えが崩れた」「頼れる人がいなくなった」と、そう思っていました。被害者のような気持ちになっていたのかもしれません。
けれど、今、20年という時間を経て冷静に振り返ってみると、よく分かります。
崩れたのは、福祉の制度でも、周囲の助けでもなかった。本当に変わってしまったのは、介護に対する、家族に対する、私自身の向き合い方だったのではないか、と。
義母がいてくれた最初の10年、そしてケアマネのWさんやヘルパーさんが支えてくれた次の10年。家族が少しずつ形を変えていく中で、私はいつの間にか、「支えられる側」の状況に甘え、介護者としての責任から目を背けてしまっていたのかもしれません。
これは、決して美談ではありません。むしろ、私の弱さや身勝手さをさらけ出すような、痛みを伴う告白です。でも、この正直な記録が、今まさに同じような葛藤や悩みを抱えているかもしれないあなたにとって、ほんの少しでも自分自身や家族との関係を見つめ直すきっかけや、前に進むための小さな勇気につながれば…。それが、今の私にとっての、ささやかな支えになるような気がしています。
関連記事
💡 ひとりで抱え込まず、まずは制度を知ることから
私も最初は、「家族だけでなんとかしなければ」と思い込んでいました。でも、利用できる制度を知り、適切な支援を受けることで、介護する側もされる側も、暮らしは確実に変わります。制度を知ることは、ご家族だけでなく、あなた自身を守るための大切な一歩です。
「知らなかった」と後悔する前に、少しだけ勇気を出して情報を調べてみませんか? それが「知っててよかった」と思える未来につながることを願っています。
次回(最終話予定)は、この20年間の介護生活全体を振り返り、私が今、本当に伝えたいことについてお話ししたいと思います。
コメント